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2006年7月19日 (水)

女偏。

昨日に引き続いて、
実践ディベート
やらせて頂きます。

・・・。

何かねぇ、
恋愛だの結婚だの
目立つようになっているのが、
最近の日本です。
まー、
その結婚が、
今後の日本に
どー影響出すのかなぁ?

そーいや、
「好き」とかいう単語が、
この話題には
関係あるんですよねぇ。

じゃ、
「好き」ってなんだろう?

「好き」の一言で収めることは、
どーかなーと思ってるんです。
それはなぜか。
どストレートにハマるフレーズだから。

「好き」っていう言葉を使うと、
現代の日本
現代の社会では、
必然的に
「嫌い」というフレーズも付随してくる。
ここが中々うっとおしい。
現代の学問だと
対義語という概念があるんですねー。
その対義語さえ存在しなければ、
バンバン「好き」「好き」と言えるんでしょうけどね。
「好きな人」と言った瞬間、
「嫌いな人」が居ることを認めてしまう気がする。
「嫌いな人」ねー。
昔は居たけど、
今は居ないかなー。
・・・いい子ぶってしまうかもしれないけど。

そーそー、
いい子ぶってるんじゃないんですか。
本音を言うと、
「好きな人」が居て、
「嫌いな人」が居る。
それでいいんじゃないでしょうか。

過去のことからも考えましょうよ。
中学時代、
「好きな人」「好きな人」と
散々言った時期があったことでしょう。
そう言っている中で、
影ながら
「嫌いな人」「嫌いな人」と
好き勝手にレッテル張をしていたことと思われます。
えー、
レッテル張自体いい事かどうかという考察は、
今回はしないということにしましょう。
かなり脱線してしまうでしょうから。
「嫌いな人」を否定する必要はない。

一個話を戻すと、
「好き」と「嫌い」関係
対義語に関して
一回考えたい。
対義語は存在すべきもの。
何故そう言うかというと、
安定させる為。
じゃ、
その安定は何処に生かされるのかというと、
思考・理性である。
自己をコントロールすることは、
実に難しい。
コントロールが容易に こなせるならば、
対義語なんか要らないんだよ。
一つの言葉だけで思考・理性を操ろうとすると、
あれも「好き」これも「好き」向こうも「好き」
まー、
色んなものが「好き」になる。
そうなったときに、
どれもおんなじ位置に存在することとなる。
それはどうかと。
おんなじ位置では、
いざ一つを選定しようとするときに、
"違い"が見つからずに迷う。
その問題を解決してくれるのが対義語であり、
「好き」の対義語の「嫌い」の存在が必要となる。

「好き」というのは、
「嫌いじゃない」こと。

でも、
「嫌いじゃない」って形は納得いかない。
それこそ「嫌い」の存在があることにもなるし、
そんなことを言い出したら、
「好き」もなくなるんじゃないかな。
「好き」と「嫌い」で成立する世の中だとしたら、
「嫌い」ばっかりの世の中になる。
「好き」なんて言えなくなる。
なんでね「嫌い」ばっかになるかと言ったら、
自分が「嫌い」だから。
自分という人間は、
なんと憎い存在なんだ。
何とも言いがたい人間であろうか。

何でこんなことを言い出したかというと、
「好き」と「嫌い」を同義語に仕立て上げてみたかったから。
見切発車であったが、
良ろしき形かも。
同義語にすることによって生まれることはというと、
社会全体が同じになる。

先ほど、
同じだと"違い"が見つからないといわれたようだが、
"違い"はあるべきことである。
つまり、
"違い"は当然である。
全く同じであることは、
まずないであろう。
ドッペルゲンガー じゃあるまいし。
であるから、
"違い"は認めるべき。

そんな事言ったら、
「好き」と「嫌い」を同義語に仕立て上げる試みが、
思いっきり崩れ落ちるのでは?

そー来ますよねー。
じゃ、
こう考えるのはいかがでしょうか。
「好き」って言ったら、
その「好き」と同じ絶対値で
「嫌い」を定義してしまいましょう。
科学的・学問的には、
この定義方法は無理があることは、
充分承知の上。
これは、
とある人を「好き」と言ったら、
その人には同じ絶対値の「嫌い」がある。
そー願っているだけのこと。
そうじゃないと、
その人の特別性が一つも見えてこない。
違う方法をしてみてもいい。
ある人を「嫌い」と言ってみたら、
その人には同じ絶対値の「好き」がある。
そうすれば、
「嫌い」って言われた人は
傷つかないでしょう。
「あ、好きとも言ってるんだ。」
ということを立証できる。
するとね、
相手の思考・理性をコントロールできるし、
自分の思考・理性もコントロールできる。

「好き」って言ったら、
「嫌い」と言っている。
「嫌い」と言ったら、
「好き」と言っている。

「好き」は「嫌い」ということ。

・・・。

ほぼ、
こじつけです。
今回の実践ディベートは、
相手の思考を
完全否定しない方法を
やりたかったのです。
成功したかどうかは
分からないが、
意識してこなしました。
もっと考えないと
いけないな。

だぁれも納得しないな。
だぁれも聞きやしないな。
まーいーや。

P.S. ディベートが「好き」です。

2006年7月18日 (火)

躍動感。

自分の動きもあるが、
周りの動きもある。
周りの動きは、
自分も動かす。

・・・。

周りの動きって言うのは、
実は切ないものなんじゃないかと。

ココでの周りというのは、
TVだっていいし、
講義だっていいし、
試験だっていいし、
友達との会話だって良い。
そこの動きが認められた時点で、
少なくとも
自身の中にも動きはある。
その動きってのは、
良い成績とったとか、
事故にあった、
大金が舞い込んだ、
どんなもんだっていいんだよ。
大雑把に言って、
その動きが起こるときは、
自身の体が動いている。
"感動"という形で
動きが認められている。
"動きを感じる"。
その"感動"は、
意識的な能動ではなく、
無意識の受動である。

つまり、
動き一つで
気付かないうちに
"感動"をしている自身は、
実は無力であるのではないかと。

でも、
能動が意識的だとか、
受動が無意識だとかは、
立証しがたい。
外からの動きが、
そのまま"感動"するのかどうかも、
どう捉えるべきなのだろうか。

その考えは、
まるで他者・他方に
「どうぞ動いてください。」

願いを示しているように思えるのだ。
外の思考も、
常時一定に動作するとも限らない。
そんな状況の中、
外の動きを欲することは、
あまりにも無謀なことであり、
その無謀さは、
自身を追い詰めているように思ってしまう。
無謀さから、
動き何一つ認められなかったときは、
「自身の終わり」

示すことではないか。

だとしたら、
周りの動きが切ないとか、
そんな言い方では収めきれないのでは。
どちらかと言うと、
周りの動きは特別なことではないのでは。
そして、
周りの動きは危険なことなのではないか。

いや、
危険で充分である。
外が不安定なのはよく分かる。
それと同じように、
自己も不安定であることになる。
ま、
不安定だこそ
時々会得できるものは、
大きい気がする。
その大きい"感動"は、
有り難いものなんじゃないかと。
でも、
有難迷惑な気もすると。
例えば、
他者が「恋した。」となったら、
自己は「恋したい。」と衝動を感ずる。
他者が「こんな発見をした。」となったら、
自己が「凄いっ!スバラシイ!!」と感ずる。
まー、
人それぞれ違いはあるが、
他者の動きが自己の"感動"を起こす。
その"感動"は、
思いもしない思考を起こしたり、
人前では
恥ずかしかったり気まずかったりして思考が起こったり、
各々の"感動"へと繋がる。
その"感動"は、
『過去にないモノ』
であるのが大半ではないか。
『過去にあったモノ』であったら、
過去より強い"感動"など、
そう簡単にはさせて貰えない。
その『過去にないモノ』は、
今までに体験したことのないモノであるから、
戸惑ったり、
恐くなったり、
寂しくなったり、
疑り深くなっちゃったりと、
過去の自己への思考もおかしくなる。
すると、
『過去にないモノ』を会得した自己は、
無理をして過去のモノから
その思考を解釈しようとする。
類似するものはあるが、
全く一致することがない。
するとどうだろうか。
『過去にないモノ』を会得した自己は、
独りぼっち

なってしまっている。

一人では、
何もできないということは、
こういうことなのではないか。
外の動きがどうであれ、
自己の動きがどうであれ、
そこから生まれた"感動"は、
『切なさを持ち合わせたモノ』

カウントを認められるのでは。

・・・。

初の試みでした。
ディベートで強くなりたい。
すると、
常日頃から、
思考することが必要と
学習しました。

なので、
実践ディベート
という形で、
時折勉強させていただきます。

P.S. 一人でトレーニング、切ねぇ・・・。